イスラム教を叩く前に、理解してみませんか?
馬鹿にするのも表現の自由?
日本では、「人様に迷惑をかけるな」という共通認識があります。
イスラム過激派のテロ行為によって、世界各国は「迷惑」 しています。多数の罪のない人が犠牲となり、非常に痛ましい事件となりました。しかし、迷惑をかけているのはイスラム過激派だけなのでしょうか?
フランスでの新聞社の立てこもり事件は、パリの新聞社「シャルリー・エブド」がイスラム教最大の預言者「ムハンマド」を風刺するイラストを掲載したことから始まりました。「表現の自由」と言われますが、人を馬鹿にすることが「表現の自由」なのでしょうか。イスラム過激派の一連のテロは、とうてい許されるものではありません。しかし、人の大事にしている物を踏みつけられて喜ぶ人はいません。「シャルリー・エブド」は、過激派ではないイスラム教徒にも「迷惑」をかけたと言えるのではないでしょうか。
そこで、安易に人を馬鹿にして傷つけてしまわないように、イスラム教の基本的な教えを理解しておきましょう。
イスラム教とは
イスラム教(いすらむきょう)は、正式名をイスラームという。 稀にイスラーム教とよばれることもある。イスラム教とは、唯一絶対の神(アラビア語でアッラーフ)を信仰し、神が最後の預言者たるムハンマド(預言者)を通じて人々に下したとされるクルアーン(コーラン)の教えを信じ、従う一神教である。
ユダヤ教やキリスト教と同様にアブラハムの宗教の系譜に連なる唯一神教で、偶像崇拝[注釈 1]を徹底的に排除し、神への奉仕を重んじ、信徒同士の相互扶助関係や一体感を重んじる点に大きな特色があるとされる。
ユダヤ教はモーセを最大の預言者とし、キリスト教はイエスを最大の預言者としています。そしてイスラム教は、ムハンマドを最大の預言者としています。
(それぞれ信条に異なりがあります。)
偶像崇拝の禁止
イスラームにおいては偶像崇拝の禁止が徹底されており、それゆえ、ムスリムが礼拝をおこなうモスクには、他宗教の寺院や聖堂とは異なり、内部には宗教シンボルや聖像など偶像になりうる可能性が存在するあらゆるものがない。ただ、広い空間に絨毯やござが敷き詰められているだけで、人びとはそこでカアバがあるメッカの方角(キブラ)をむいて祈る。モスクには、メッカの方角の壁にミフラーブと呼ばれるアーチ状のくぼみがあり、ムスリムはそれによってメッカの方向を知るのである。
写本絵画などにおいては、預言者ムハンマドの顔には白布をかけて表現されることが多いが、これも偶像崇拝を禁止するイスラームの教義に由来している。
イスラム教では偶像崇拝を禁じているので、「ムハンマド」も崇拝の対象とならないように顔を描くことはタブーのようです。「シャルリー・エブド」の風刺画ではムハンマドの顔も描かれていたようです。
2つのジハード
ジハードは、六信五行というムスリムの信仰と義務の項目には含まれていないが、『クルアーン』では「奮闘努力」という非常に幅広い意味で登場し、したがって、その意味からも六信五行を越え、イスラームの信者として当然持たなければならない基本的な心構えとして、いっそう重要な命令と考えられている[2]。
広い意味でのジハードには、次の2種類が存在するといわれている[1]。
- 個人の内面との戦い。内へのジハード。非暴力的なジハード
- 外部の不義との戦い。外へのジハード。暴力的なジハード
イスラム教徒の言う「ジハード」には、自分の内面との戦いである「大ジハード」と、一般に「聖戦」と訳されるイスラーム共同体外部への侵略戦争や、自衛のための戦いである「小ジハード」の2つの意味があるようです。歴史を通じて、様々な機会に「ジハード」という言葉が戦争に関して用いられてきました。 最近ではテロリストにも「ジハード」が用いられ、イスラム教のイメージを悪化させています。また、様々な原因から欧米諸国に反感を抱いている地域では、イスラム教徒を惹き付ける「ジハード」という言葉を、政治家が支持を得るために用いることもあるようです。
ジハードで戦死したら天国に行ける?
ジハードで戦死した者は、この世の終わりに最後の審判がなされた結果、天国にいけるとされています。
まとめ
私たちが理解しておくべきことをまとめてみます。
☆イスラム教では偶像崇拝を禁止している。
「アッラー」だけを崇拝しているので、像を用いた崇拝や預言者の似顔絵などは受け入れられません。
☆ジハードは「聖戦」という意味ではない。
ジハードはおもに「自分の内面との戦い」の意味合いが強いものです。
現在見られるテロによる「ジハード」は多くのイスラム教徒にとっても受け入れられないものです。
テロは決して許されません。でも、人の大事にしているものを馬鹿にすることもしてはいけません。「テロに屈しない」と言って風刺画を掲載するのは、ちょっと論点がずれているように感じます。
まずイスラム教を批判するのではなく、彼らが大事にしているものを認めてみてはどうでしょうか。やられたからと言ってやり返したら必ず喧嘩になります。「言葉には大きな力がある」ということを忘れないようにしましょう。グッと我慢するのも大人の対応だと思います。